フィンランドの初等国語教育
本日、息子の小学2年生の全授業が終了した。
今日から来月7日の始業式まで、春休みとなる。
本当に羨ましいかぎりだ。
さて、終業式といえば、お約束の通知表である。
誤解を恐れず言うが、私は通知表を信用していない。
息子の習熟度くらいは、親である自分のほうが
よくわかっていると自負している。
特に、初等教育の場合、そう思って通知表を開かないと、
自分の評価と通知表の評価に相違があった場合、
私自身が混乱し、教育や指導の適正を欠いてしまう。
ただ、他者の評価としては、非常に興味はあるし、
通知表は、家庭での良い指導機会となりえる。
また、通知表を眺めると、学校が何を評価しよう
としているのかを知ることができるのも良い。
一番ありがたいのは、生活面を知る通信欄だったりする。
今日から来月7日の始業式まで、春休みとなる。
本当に羨ましいかぎりだ。
さて、終業式といえば、お約束の通知表である。
誤解を恐れず言うが、私は通知表を信用していない。
息子の習熟度くらいは、親である自分のほうが
よくわかっていると自負している。
特に、初等教育の場合、そう思って通知表を開かないと、
自分の評価と通知表の評価に相違があった場合、
私自身が混乱し、教育や指導の適正を欠いてしまう。
ただ、他者の評価としては、非常に興味はあるし、
通知表は、家庭での良い指導機会となりえる。
また、通知表を眺めると、学校が何を評価しよう
としているのかを知ることができるのも良い。
一番ありがたいのは、生活面を知る通信欄だったりする。
ちなみに、息子の通う小学校では、「よくできる」、
「できる」、「もう少し」の3段階評価である。
この評価法をネットで調べてみると、とても興味深い。
「よくできる」は設定目標の80%に到達、60〜70%なら
「できる」、それ以下が「もう少し」という<絶対評価>が
基本になっているそうだ。しかし、絶対評価だと、大多数が
「よくできる」となる場合もあり、これには過去に
議論もあったようで、現在は、「よくできる」の中から
(35人クラスなら)上位8〜12人を「よくできる」、
残りを「できる」に振り分けするらしい。
これを「相対評価を加味した絶対評価」と言うのだそうだ。
良くも悪くも日本らしい評価法だ。
ちなみに、今回は私の評価とのギャップはほとんどなく、
お陰様で、「もう少し」は0だったが、案の定、国語と図工、
体育に「できる」が集中している。代わりに、算数、音楽は
全て「よくできる」となっていた。
以前にも書いたが、息子の国語に対する不得意感は、
凄まじいものがある。漢字の読み書きなど、暗記系は
特に問題ないのだが、感想文などの作文力がない。
思ったこと、感じたことを文章化する表現力、そうした
基礎力の乏しさをそろそろなんとかしてやりたい。
図工にしても、今評価されているのは芸術性ではない。
他者の作品に対する気づき、道具の安全な使い方、
思ったこと、感じたことを表現する力、といったことが
評価項目であり、ある意味、彼の問題は、国語の分野、
特に、想像力の未達に集約できる。
フィンランドの初等国語教育の凄いところは、
解答というものが存在しないことにある。
正確に言うと、解答は一つではないのである。
これは、現実に即した自然な形であると思う。
その代わりに、解答には理由付けが重要視される。
一通り文章を読んで、登場人物や取り巻く環境を把握し、
誰がどう思ったか?誰ならこの後どうするか?など、
決して答えの無い設問に、自由に答えさせ、その後
必ずその解の訳を聞く。そして、その理由付けは、
皆を納得させられるような論理的なものでなければ、
正解答とならないルールなのである。
もちろん、他者から批判的な意見も出される。
他者の意見を聞くことも、それを下敷きに論理を
折り重ねるように反証することも、フィンランドの
重点教育事項である。
上記は、私が彼に春休みの宿題代わりに与えたものである。
答えを探そうとする癖の付いてしまった愚息は、
最初「答えが無い設問」との私の説明に、面食らって
しまった様子で、何をしていいかわからず思考停止。
こちらがイライラしてせっ突くと、溜まらず、
泣き出してしまう体であった。彼には難しい設問のようだ。
どうも表現回路が上手くないようである。
この書の中にも、正直、日本の文化背景的に
マッチしないものも多くあるが、大半は具体的な
国語力トレーニングとして、非常に優れている。
例えば、まず「犬が吠えた」という一文から、
その状況を目を閉じて想像させる。
そして次に、「隣の家の黒い犬が吠えた」として、
同様に想像させる。その後、「激しく吠えた」とか、
「奇妙な物音に吠えた」などの形容句や形容詞を
次々と加えていって、その都度、思い描くシーンが、
どのように変化していくかを体験させる。
さらに、「男の子が泣いた」という一文から、今度は
自分自身で、次々に「いつ」「どこで」「どのように」
などを形容する言葉を自由に段階的に加えて文章化し、
都度、イメージを修正させ、最後はその絵を描かせる。
この問題は、息子にも面白かったようだ。
漠然とした、説明の粋を出ない絵しか描けなかった
息子が、急に素晴らしい絵を描くようになった。
想像力とは、頭のなかで、ビジュアルを作る能力だ。
この発達がないまま、成長してしまうと、例え文章では
理解できたとしても、その像を捉えることができない。
像が描けないと、問題点の発見や新しいアイデアもでない。
次に起こることを予見したり、新しい創造に必要な能力。
これこそが、国語が全ての学力の下敷きとなることの論拠だ。
残念ながら、息子には、天賦の才は見当たらない。
しかし、トレーニング次第で全て人並みにはなれるだろう。
親の言うことを聞く年代のうちに、なんとかしたいと思っている。
「できる」、「もう少し」の3段階評価である。
この評価法をネットで調べてみると、とても興味深い。
「よくできる」は設定目標の80%に到達、60〜70%なら
「できる」、それ以下が「もう少し」という<絶対評価>が
基本になっているそうだ。しかし、絶対評価だと、大多数が
「よくできる」となる場合もあり、これには過去に
議論もあったようで、現在は、「よくできる」の中から
(35人クラスなら)上位8〜12人を「よくできる」、
残りを「できる」に振り分けするらしい。
これを「相対評価を加味した絶対評価」と言うのだそうだ。
良くも悪くも日本らしい評価法だ。
ちなみに、今回は私の評価とのギャップはほとんどなく、
お陰様で、「もう少し」は0だったが、案の定、国語と図工、
体育に「できる」が集中している。代わりに、算数、音楽は
全て「よくできる」となっていた。
以前にも書いたが、息子の国語に対する不得意感は、
凄まじいものがある。漢字の読み書きなど、暗記系は
特に問題ないのだが、感想文などの作文力がない。
思ったこと、感じたことを文章化する表現力、そうした
基礎力の乏しさをそろそろなんとかしてやりたい。
図工にしても、今評価されているのは芸術性ではない。
他者の作品に対する気づき、道具の安全な使い方、
思ったこと、感じたことを表現する力、といったことが
評価項目であり、ある意味、彼の問題は、国語の分野、
特に、想像力の未達に集約できる。
フィンランドの初等国語教育の凄いところは、
解答というものが存在しないことにある。
正確に言うと、解答は一つではないのである。
これは、現実に即した自然な形であると思う。
その代わりに、解答には理由付けが重要視される。
一通り文章を読んで、登場人物や取り巻く環境を把握し、
誰がどう思ったか?誰ならこの後どうするか?など、
決して答えの無い設問に、自由に答えさせ、その後
必ずその解の訳を聞く。そして、その理由付けは、
皆を納得させられるような論理的なものでなければ、
正解答とならないルールなのである。
もちろん、他者から批判的な意見も出される。
他者の意見を聞くことも、それを下敷きに論理を
折り重ねるように反証することも、フィンランドの
重点教育事項である。
上記は、私が彼に春休みの宿題代わりに与えたものである。
答えを探そうとする癖の付いてしまった愚息は、
最初「答えが無い設問」との私の説明に、面食らって
しまった様子で、何をしていいかわからず思考停止。
こちらがイライラしてせっ突くと、溜まらず、
泣き出してしまう体であった。彼には難しい設問のようだ。
どうも表現回路が上手くないようである。
この書の中にも、正直、日本の文化背景的に
マッチしないものも多くあるが、大半は具体的な
国語力トレーニングとして、非常に優れている。
例えば、まず「犬が吠えた」という一文から、
その状況を目を閉じて想像させる。
そして次に、「隣の家の黒い犬が吠えた」として、
同様に想像させる。その後、「激しく吠えた」とか、
「奇妙な物音に吠えた」などの形容句や形容詞を
次々と加えていって、その都度、思い描くシーンが、
どのように変化していくかを体験させる。
さらに、「男の子が泣いた」という一文から、今度は
自分自身で、次々に「いつ」「どこで」「どのように」
などを形容する言葉を自由に段階的に加えて文章化し、
都度、イメージを修正させ、最後はその絵を描かせる。
この問題は、息子にも面白かったようだ。
漠然とした、説明の粋を出ない絵しか描けなかった
息子が、急に素晴らしい絵を描くようになった。
想像力とは、頭のなかで、ビジュアルを作る能力だ。
この発達がないまま、成長してしまうと、例え文章では
理解できたとしても、その像を捉えることができない。
像が描けないと、問題点の発見や新しいアイデアもでない。
次に起こることを予見したり、新しい創造に必要な能力。
これこそが、国語が全ての学力の下敷きとなることの論拠だ。
残念ながら、息子には、天賦の才は見当たらない。
しかし、トレーニング次第で全て人並みにはなれるだろう。
親の言うことを聞く年代のうちに、なんとかしたいと思っている。



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